我が青春の六本木!

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『個人にとって最も重要なのが努力であることは、いままで述べたとおりだが、では組織にとってもっとも大切なことは何だろうか。私は「和」だと考える。・・・「地の利は人の和に如かず」孟子は、兵法には三つの要素があると考えたといわれる。“天の時”と“地の利”と“人心の一致”である。・・・孟子は、“人の和”に最優先順位を付けたのだ。」大山倍達総裁著書 わがカラテ 覇者王道

全日本大会が大都心六本木で開催される。

六本木で空手道選手権大会が・・・全くイメージが湧かない。六本木は新宿や池袋みたいな夜のイメージが強い。しかし、六本木はクリーンさを兼ね備えている。隣は麻布や赤坂、青山と続く。テレビ朝日がある。諸外国の大使館が立ち並ぶ。国内有数の芸能事務所の宝庫の街でもある。六本木は詳しい。何故ならサラリーマン時代に2年間勤務したから。千葉の寮から2時間掛けて通った。今から丁度30年前の事である。

六本木が華やかな街だから好きだったのではない。華やかな街で勤務したから記憶に残っている訳でもない。キャバクラやディスコにも行った。正直言えば自分は華やかな場所よりも赤ちょうちんがぶら下がった小さな居酒屋で飲む方が好きである。もっと言えば、仲睦まじい老夫婦がふたりだけでやっているカウンターとテーブルが1,2個あるくらいの店が大好きである。西千葉にあった。後楽園にもあった。焼酎のボトルをキープする時はいつもこう名乗った。飲む時は芸名があった。店に顔を出すと女将さんがこう言った。

「管原さん、ボトルまだありますよー!」

映画俳優の菅原文太さんが大好きだった。

千葉から役所のある六本木までは遠かった。通勤は最悪だったが、2年間の勤務はやり甲斐もあったし楽しかった。熊本での1年間の研修と船橋での3カ月の短期研修を終えて第一線の職場に配属された。幕張にある千葉西を皮切りに日本橋、江戸川、本店、六本木にある麻布と転勤した。麻布以降も転勤は続く。20年の在職中に10回くらい転勤した。振り返って一番良かった所は?と訊かれたら。

文句なく麻布(六本木)と答える。

仕事の面だけ考えると、この麻布の次に転勤した本店勤務時代の3年が一番かもしれない。本店ビルのど真ん中の5F時代が仕事的には一番きつかったが一番やり甲斐があった。東京駅から徒歩で通った。皇居の直ぐそば、昼はよく散歩した。大手銀行や有名大企業の本店が立ち並ぶ。官房系だったので各課との接渉が多く、人的にも多くのことを学んだ。そこは仕事が出来て当たり前の所だった。もう一度サラリーマンに戻ってやりたい場所は?やりたい仕事は?と訊かれたら・・・

大手町1丁目ですと答える。

仕事は大手町、人は麻布(六本木)時代が一番だった。

5月の全日本ウエイト制大会重量級で4位に入賞し、正式に第4回世界大会の日本代表選手に決まった。夢にまで見た世界の舞台!11月の大会に向けて死に物狂いの稽古に励んでいる時、7月の定期異動で本店から新しい課長が来た。同期でトップを走る大卒の40歳くらいのバリバリの若い課長さんだった。仕事は厳しかったが、5時以降は普通のおじさんに変貌した(笑)。お酒もカラオケも麻雀も大好きで面白い人だった。面倒見がよく部下に慕われた。“この人のためにも頑張ろう!”そんな思いを持ったのもこの時が初めてだった。仕事をして何んぼ!の世界である。所詮国家公務員、実績が全てものを言う。特に上司は大変である。毎月報告がある。棒グラフで本店から比較される。

(仕事で結果出して)この人を男にしたい!そんな上司だった。

週休二日制ではなく、まだ土曜日が半ドンの時代だった。世界大会の時、その上司は金曜日から休暇を取って3日間全て日本武道館に応援に来てくれた。ビデオカメラを持って部下である自分の世界の舞台に立つ雄姿を記録してくれた。4回戦で後ろ回し蹴りでノックアウトされた時も、少しもぶれずに最後まで撮ってくれた。担架で運ばれるシーンまでちゃんと撮ってくれた。不動心を学んだ(笑)。もちろん、当時から会場内での撮影は禁止だったにもかかわらず。

第4回世界大会のビデオは自分の生涯の宝物である。

その課長さんと麻布(六本木)でまた同勤することになった。課は隣だったが、4年振りに同じ部の課長に着任して来た。江戸川時代に続き自分が2年目の時だったので、部内の元気のいい若いやつらをまとめていたので感謝された。仕事の面以上に5時以降の若手職員の団結に貢献したので、その課長さんには頼りにされた。あの麻布の2年目の1年間はサラリーマン生活20年で一番楽しかったかもしれない。六本木の街がそれに花を添えた。ましてや独身だったから尚の事(内緒)。芸能人にもよく会った。街や店で。一番は何かの記念行事で憧れの映画スター管原文太さんが教養講話に来てくれたことである。最高だった。街でスカウトされそうになった事もあった。よく自分は声を掛けられた。“もしかして極真空手の奥村さんじゃないですか?”って。場所が場所だっただけに、“人違いじゃないですか。私は管原と言います”って。インターネットもユーチューブも、K-1も総合格闘技もない時代である。極真はあまりにも有名過ぎた。分裂前の世界選手権!超の字が幾つも付くほど世間に認められていた。

5時以降はその課長さんを中心に、部内で課を越えて自然と気の合う仲間が集まった。当時、テレビドラマで人気を博し、芸能界の中でも一番の団結力を誇った石原プロモーションのその呼び名にあやかり、同じ名前を付けた。課長さんが石原裕次郎さんと同じ苗字だった。

石原軍団!と名乗り、課長さんのことをメンバーは“団長!”と呼んだ。

石原軍団の中の後輩が住む独身寮が後楽園にあった。石原軍団行き付けの店が自然と後楽園にできた。遅くまで飲んで千葉まで帰るのが苦痛で、後輩の寮によく泊まらせて貰った。団長は行かなかったが、若手の野郎4人で伊豆七島の式根島に旅行したのはいい思い出である。当時の自分らを見たらとても公務員には見えなかったと思う。

20年前に退職した。空手の道を選んだ。何人かの当時の先輩や仲間が道場に顔を出してくれた。いまだに年賀状をくれる仲間もいる。最近はご無沙汰だが、石原軍団は自分が退職しても忘年会をしたり何度も集まっったものである。団長は、千葉南支部奥村道場の相談役である。世界ウエイト制大会の優勝祝賀会では、三好副代表の主賓挨拶に続いて乾杯の発声をお願いした。自分にとってはそれだけ大切な人なのである。

だから場所ではない。人である。あの六本木の地で勤務した時代の仕事仲間が貴いのである。道場には少し遠のいた時期ではあったが、間違いなく自分の熱い青春時代を飾った日々でもあった。我が青春の六本木でいよいよ世紀の決戦が開催される。自分にとっては30年振りの六本木でもある。

大山総裁は仰せである

『・・・どんなに天がわれに味方しても、地の利に恵まれても、人の和合の力にはかなわない・・・努力し、団結することを覚えたら、人間、どんなに強く頼もしいだろうか。

人を愛し、人を利する者は、天必ず之に副(さいわい)す)

人を愛し、人のためによいことをする者には、天が必ず幸福を授けるという意味である。』

新極真会の一員であることを心から誇りに思う。今は苦難の時代ではあるが、この時代に緑代表をはじめ多くの仲間と同じ組織の中で歩んで行けることを心から幸せに思う。

人の和とは、即ち“団結!”である。天の時が来た。

いざ出陣!

決戦の地へ行って来ます。

天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず!