武の道の探究は断崖をよじ登るが如し!

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壮年部の神田さんがまたやってくれた。やってくれたと言うのは、何か不始末を仕出かしたという事ではない。またまた新たな伝説を作ってくれた((´∀`))

大山総裁存命中の極真総本部と同じように、新年の鏡開き稽古会の席上で年間稽古最多出席者を「年間努力賞」として毎年表彰している。その準備をすべく昨年の稽古日数の集計をしていた時の話である。8月に稲毛海岸道場から移籍して以来、週5日のペースで通う神田さんの勢いは止まらない。

神田伝説其のⅠ.移籍後すぐ、「師範、大会出たいのですがありますか?」

神田伝説其のⅡ.入門(移籍)1か月後には道着3着!

神田伝説其のⅢ.一般部(壮年部)で初めて2階級の飛び級達成、白から青帯

神田伝説其のⅣ.「昇級のお祝いにウナギ食べに行きます。」

神田伝説其のⅤ.(初めての昇級後)昇級レポート提出

そして新年が明け・・・

7月に入門して8月お盆過ぎに移籍して来るまでの稽古日数が分からない。安達先生にメールで問い合わせた。丁度集計している時に神田さんが稽古を終えて事務室に挨拶に来たので訊ねた。

「神田さん、大体でいいので本部に来る前の稲毛海岸道場時代の稽古日数分かりますか?安達先生にも調べて貰ってますので、分かったらでいいんで今度教えて貰えますか。」

「(稽古日数)今直ぐ、分かります。」

スマホをいじって・・・

「7月が7回、8月が3回です。8月は本部含めて11回稽古しました。押忍」

思わずひっくり返りそうになった。

「よく直ぐに分かりましたねえ。」

「グーグルのスケジュール表に稽古した日は印付けていますので直ぐに分かるんです。」

その時に、入門日が7月7日だったことや入門のいきさつなどを聞いた。色々な事を聞けば聞くほど面白い人だなあと思った。こんな人と一緒にお酒飲んだら話が弾むだろうなあと心の中で思った。今度、師範の「ひとり水炊き会」に特別招待しようと思った((´∀`))

1カ月もしない内に道着3着買ったり、昇級レポート自分から出して来たり、壮年部で週5日稽古したり・・・今までこんな道場生いなかった。稽古した日を入門以来記録している人を道場開設以来初めて知った。恐るべし55歳!

極真現役時代、入門以来付けていた「空手日記」がある。そして日記とは別に、実は自分も稽古に行った日は毎日記録していた。記録していたと言うよりは印を付けていた。当時、公務員に採用された時に配布された「職員手帳」という物があった。手帳と言ってもポケットに入れたり、カバンに入れて持ち運ぶような小さな物ではなかった。B5判より少し小さ目で、公務員法や服務規程がびっしり載って厚みがあった。年間スケジュール表や月間スケジュール表、カレンダー、メモ書き欄などは加除式になっていて毎年差し換えるようになっていた。その中のカレンダーの日付けに、稽古に行った日は丸印をしていた。

当時も道場の受付けに出席簿があった。行くと自分で〇出のハンコを押し、その日の稽古名簿に自分で名前を書いた。当時は多い時で20、30人居たので、その名簿をその日指導を取る黒帯が道場に持って来て出席を取って顔を覚えたり、組手の対戦の時などに使った。また、当時は月の稽古日数の上位10番までを毎月張り出していた。出席簿、上の黒帯からずらっと並び一般部だけで100名以上はいた。年末と正月3が日以外休みはなく、週5日くらい稽古する道場生は当たり前の時代だった。今の奥村道場のあの3羽烏みたいな道場生はゴロゴロいた((´∀`))。毎日が競争だった。毎日が試練だった。ただし、そう思って稽古に励む人にとってはの話である!100名載ってる名簿。稽古に来ない、いわゆるハンコがない人も多かった。黒帯茶帯はそうそう名簿順位は変わらない。青帯や色帯は3カ月ごとの昇級審査で大きく変わった。ましてや入門者が絶えなかった時代の白帯の名簿の順番、毎月変動入れ替わりが激しかった。

当時の稽古カレンダー見たら面白い!色々なことが分かる。

(昭和56年)7月4日は大きな黒丸●で塗りつぶしていた。7月7日は小さな黒丸。15日も黒丸、15日?何故か思い出せない?かすかな記憶を辿ると・・・入門して何回目かの稽古の日。師範と初めて会って声を掛けられた。「君が奥村君か!」“押忍!”多分事務長さんに、九州から極真空手がやりたくて入門して来た19歳の元気のいい公務員がいるわよと訊いていたのかもしれない。7月は番号書いてなかったが、8月は№82とある。出席名簿の上からの順位だと思う。10月に№58。翌年2月に№44。2月の審査で緑帯になった。3月には№28に。4月には№13になっていた。もうそれ以降の月は席次№が付されていない。日曜日に丸印が全然ない。空手日記の通り、緑帯になって日曜日特別稽古会の「小天狗実戦会」に参加するようになるまで、日曜日の稽古は一日も出たことがなかった。独身寮時代、毎週土曜日の夜は麻雀するか必ず飲み会、日曜日は稽古休みの日と決めていた。今思えば、まだまだ甘かった。

本気ではなかった。

今思えば、あの出席名簿を見たら極真空手の厳しさが分かる。

あの出席簿を見たら、たとえ稽古に出ていなくても名前と顔が一致しなくても、師範は誰が頑張っているか!誰が強くなるか!分かっていたのである。だから、たとえ名前と顔が一致しなくても突然師範が降りて来て「〇〇と〇〇、やってみろ!」と組手をさせたのである。今思い出しただけでもゾッとする(内緒)。組手全盛の時代だった。悲しいかな!或る時から突然に空手日記をやめた。時を同じくして稽古日を記録することもやめた。何故やめてしまったのか?理由が全くわからない。全く覚えていない。日記を記すことはやめたが、世界大会に向けて修業した日々も日本代表選手になった後の修行の日々の事も忘れることはない。全日本大会で入賞した頃や世界大会に出た年の稽古日数!間違いなく一番だった。稽古しない日を丸印した方が分かり易かったかもしれない。6畳一間の独身寮の部屋で、大山総裁のポスターの前で行った自主トレの日々、道場の稽古日数にはない今の自分を作ったもうひとつの修行があった。

そして、もうひとつ決して変わらない事実があった。参段になっても、たとえ世界大会日本代表選手になっても自分が席次一番になることは決してなかった。自分の(出席簿の)上にはいつも初段のままの白石先輩がいた。大会に出たり、自分の方が組手で強かろうが、自分を白帯時代から指導してくれた岡崎先輩の名前があった。毎年稽古日数一番で全日本選手の翔太が、だからと言って名簿で一番にはなることはない。しかし、全日本大会出たいなら稽古日数は一番になるくらいじゃないと難しい。出席簿の順番!そういう所にも武道の根本がある。

五段になっても支部長師範になっても、白石先輩・岡崎先輩はいつまでも自分にとっては先輩である。

コロナ禍の中で一斉休館となった時期もあった。今は一般部の夜の稽古は20時までである。厳しい状況はこれからもまだまだ続く、大会開催もその出場さえももままならない状況である。その中でも好きな空手をどういう形であれ続けて貰いたいと願うばかりである。

大山総裁時代からの伝統の鏡開き稽古会。総本部は必ず1月11日に午前5時から行われた。自分の現役時代、支部ではさすがに平日には行われなかったが、第二日曜日に行われていた。県下の全分支部長さんや主だった黒帯、全日本選手が集まって一年のスタートを切った。表彰も行われた。自分はその後の新年会が大好きだった。残念ながら今年の総本部鏡開き稽古会は緊急事態宣言を受け中止となったが、17日の支部鏡開き稽古会は皆で揃って元気一杯に汗を流して好スタートを切りたいものである。

たとえ黒帯になっても白帯時代の純粋さを忘れてはいけない。たとえ全日本選手になって強くなったとしても、弱かった色帯時代のことを忘れてはいけない。どんなに空手歴を重ねても入門した時の事を忘れてはいけない。

“初心忘れるべからず!”

自分にも白帯時代があった。公民館で奥村道場をスタートした時は8名だった。縁あって千葉の地に常設道場を開設した。加曽利に引っ越した夜、道場は白い壁だけだった。何もなかった。翌朝、一番に道場正面にあの大山総裁のポスターを掲げた。

「幸一師範、使命 原点!」

新年にあたり、自分の使命とは何か?今一度、原点に立ち返り、空手道修業に励む決意をした次第である。ひとりでも多くの皆さんが、何か志を抱いて鏡開き稽古会に参加されることを切に希望します。

武の道の探究は断崖をよじ登るが如し 休むことなく精進すべし