Category Archives: 師範ブログ

83463489_2368130213499423_7026547138838396928_n

黒帯は茶帯(時代)で決まる!

今日、翔太が書初めの「書」を持って来た。

「翔太、何て書いた?」

「押忍!黒帯です。」

昨年に続き冬合宿で書初め大会を行った。小学校では3年生で習字を始めるらしい。習字をしたこともない分支部の2年生達も初めて習字にチャレンジした。参加者全員が思い思いの言葉や字を書に著わしていた。書に臨む姿勢も道場の姿と同じだなあと思った。同じ人間がやる事だから!色々な意味で有意義な時間となった。これからも書初め大会は続けて行こうと思った次第である。

そんな中で帯はまだ届いてないが、昨年念願の初段・黒帯になった翔太は書初め大会で“黒帯”と書いた。当たり前の事とは言え、よほど嬉しかったのだろう。決して上手な字とは言えないが何度も何度も黒帯と書いていた。それこそ心魂込めて黒帯と書いていた。

高校3年生、18歳で黒帯になった。高校生で全日本大会にも出場した。1年前には、世界大会の日本代表選手候補合宿にも参加した。自分の入門が19歳であることを考えれば凄い経験ばかりである。念願の黒帯になる。夢にまで見た黒帯を締める日は近い。翔太がどんな黒帯になるか?今から楽しみである。

一度黒帯を締めたら、もう茶帯に戻ることはない。

自分にも同じように黒帯を目指し稽古に励んだ茶帯時代があった。夢を追って血と汗にまみれ修行に励んだ茶帯時代があったからこそ黒帯を締めることが出来た。正月早々の事、ある道場生との会話がきっかけで茶帯時代の懐かしい写真が載ってる写真集が蔵の中から出てきた(笑)。常設道場を構えて以来初めて書棚の奥から出したかもしれない。その写真集に懐かしい秘蔵の写真が載っていた。

入門して2年4か月、21歳の時に初めて出場した第15回全日本大会の1回戦の試合の写真である。勿論、茶帯だった。

初出場した第15回大会は、翌年の第3回世界大会の日本代表選手の選抜戦でもあった。当時は二次選抜も三次選抜もなかった。世界大会の選抜戦ではあったが、自分にとっては世界大会など全く関係なく、初出場の嬉しさで無我夢中で戦っただけだった。しかし、敢えて言うならば、世界大会選抜戦だったからこそ、その後は本気で世界を目指す契機にもなった。この全日本大会出場は自分で勝ち取ったものだった。その年の支部内の’全日本選抜戦の大会で準優勝したからこそ出場権を得ることが出来た。

現役時代、入門以来ずっと書いてた【道場日記】・・・

1983.09.01 師範より

『全日本に出すかもしれない。休まずにガンバレ。まだ組手なんか早い。パワー空手だから。今は基礎体力をつけろ。動かない止まったサンドバッグなんか突いても意味がない。基本稽古は必ずやること。そしてパワー!体力をつけろ。拳立て600回、スクワット(騎馬立ち)600回、腹筋500回、バーベル100回、上段回し蹴り10分(左右5分)。負けても仕方ないが、やるだけのことはやれ!何もしないで負けたらどうなる。』

「2か月間死ぬ気でやるしかない。押忍」

あの写真集は、第3回世界大会を記念して発刊されたものである。大山総裁の尊敬する宮本武蔵の著書「五輪書」のに准えて地・水・火・風・空の5パートに分かれ総裁の修業時代を中心に全日本大会の歴史などを紹介した一大写真だった。だから前年の全日本大会も取り上げられていた。自分の記憶では、大会会場で分支部の黒帯の先輩が「奥村の写真が載ってるぞー!」と言われて、多分会場で買って帰ったような気がする。

空手バカ一代に憧れて、ただただ極真空手がやりたくて上京。いつの日か大山総裁に名前を覚えられたい。いつの日かゴッドハンド“神の手!と謳われた手で”握手をして貰いたい。そのためにも全日本の舞台に立ちたい。との一心で稽古してたように思う。その夢が叶った大会だった。

奇跡かな?4回戦まで行った。

【道場日記】1983.11.14(大会翌日)

今日より来年に向けて稽古。師範、支部長会議より帰られる。

『よくやったぞ!館長もほめてたぞ。本当はお前に敢闘賞やりたかったけど。やっぱり三瓶(選手)の4連覇阻止の・・・。でもよくやったぞ!』

「押忍!ありがとうございます。」

『おごることなくガンバレ!高品、白石(先輩)に勝つまで続けろ。』

「押忍!」

極真空手に入門することが夢だった。いつの頃からかその夢が膨らみ、全日本、世界へと繋がって行った。あまりに厳し過ぎるほどの師範だった。あまりに己と稽古に厳しいほどの強い先輩が道場にいた。

名匠が名刀を打つが如く

熱い炉に入れた鉄自体が熱くならなければ刀は出来ない。冷めた鉄をどんな名匠が打っても名刀にはならない。反対に、たとえ鉄が熱くても打ち間違えたら名刀にはならない。未熟な刀鍛冶が打っても名刀はできない。

熱い心で修行する者に熱い指導を!

それでも勝てるどうか?勝負の世界は厳しい。黒帯になってからが本当の修業である。それは間違いない。しかし、その黒帯になる直前の茶帯時代の苦しい修行こそが大事なのである。結果も然りであるが、稽古姿勢が。

どんな黒帯になるか?それは、どんな茶帯になるかで決まる。黒帯は茶帯時代の修業で半分決まる(自分はそう思う)。

黒は、どんな色にも染まらない信念の色である!

36年前、定価4,700円で英訳版と2冊も買っていた(笑)。

 

無題

縁が縁を呼び、絆となる

第12回世界大会で日本選手団は男女W優勝を成し遂げた。男子の島本雄二選手は二連覇を達成した。この春からは東京練馬で支部道場を開設し、支部長として指導者としての道を歩むこととなった。

世界チャンピオンの島本と比べるすべもないが、自分も32年前世界大会の後に実質引退し、当時の本部道場の師範代と新しく作られた選手クラスの責任者を任されることになった。緑帯になった時、全日本大会を目指す日曜日の選手クラス『小天狗実戦会』が復活した。当時は千葉県下に10以上分支部があったが、初期の頃は実戦会には黒帯しか参加していなかった。参加人数も10名を超えたことはなかった。組手の激しさからか茶帯すら参加しなかった時代に、自分は緑帯で師範から特別に参加を許された。今の少年部全盛の時代とは違い血気盛んな10代、20代の一般部全盛の時代だった。そんな時代でも全日本大会を目指し支部内合同の強化稽古を行っていたのである。その規模ややり方は違うが、今の日曜日の朝練のようなものである。ドリームの前やユース合宿の前に行う少年部も含めたあの特別稽古然りである。要は支部間の交流である。

ひとりでは限界がある。同じ目標を持つ者同士の切磋琢磨こそが真の強さを生むのである。

全日本大会を目指す茶帯黒帯の「小天狗実戦会」に出るほどのレベルではないが、先ずは千葉県大会出場を目指す大会志向の色帯の選手を千葉県下の分支部道場から集めた新しい選手クラスが世界大会が終わって発足した。自分が責任者となり、空手の象徴である拳と技を磨く意味で『拳技会』と名付けた。現役時代から今でも一番好きな補強は、拳立てである。

以前、選手団コーチを務める石原支部長から、岡山東支部に当時の千葉南支部の道場生がいて、その拳技会に参加して監督のことをよく知っている人がいることを聞いた事があった。1月の支部長会議の時にもその話が出て、つい先日その道場生の写真を送ってくれた次第である。多い時は20名位参加したので、はっきりとは顔は覚えていないが記憶はある。5月大阪で30数年振りの再会を今から楽しみにしている。

石原支部長との不思議な縁は続く・・・

やはり今年1月の支部長会議の時の出来事である。会議が始まる前に席が前後ろだったので雑談をしてた時の事。鏡開き稽古会での護国寺の講話の話になった。今年の“心の綺麗な人のところには心の綺麗な人が集まる!”・・・は、いい話だったなあ!一昨年の話も良かったなあ!忘れられないなあ!と何気に言うと。

石原支部長からどんな話でしたか?と訊ねられたので書道の神様と謳われた小野道風という人がいて・・・という例の「道風と蛙」の話をしたら。名前を知っているどころか。“地元の英雄です。実は自分も書道を習っていました。”ビックリ仰天!椅子からひっくり返りそうになった。石原支部長は愛知県春日井市出身で、小野道風の生まれ故郷が同じ春日井市である事も初めて知った。今年は初っ端から大収穫だった(笑)。

縁はまだまだ続く・・・

第3回カラテワールドカップの前の年?組織名が変わる前である。日本選手団に試練を与えるために緑代表が福岡支部主催で第1回国際大会を開催した。第7回世界大会準優勝のムザハ・バカックはじめ若き日のバレリーやローマン達海外勢と第8回の日本代表候補の選手達が勢揃いしたその大会で優勝したのが石原支部長だった。石原支部長は家族で遠征、自分も大会で地方に初めて家族で遠征した。大会翌日の帰り、博多駅近くのロッテリアで石原家族と遭遇した。偶然にも当時まだ1歳か2歳の凜々ちゃんと我が家の次女が同じ年だったので朝からその場で盛り上がったことをよく覚えている。我が家の次女は3回目で“もうやだ!”と言ってやめてしまったが、凜々ちゃんのその後の成長活躍ぶりは周知の通りである。そういう事もあったのでわが事(子)のように見守ってきた。

こうも縁が重なるのも珍しい。極め付きは、岡山と言えば・・・やはり桃太郎である。少年部選手クラスに桃太郎クラスと名付けたが、これも何かの縁かもしれない。

縁が縁を呼び、また縁が重なり。深い絆となる!

書道の本家本元の人に、何も知らないで拙い書を渡していたとは・・・・

“石原、今度は俺のために何か書いてくれよな。”

やっぱり昔からこんな仲だったとは(笑)!

 

 

82416417_177539049988287_5917329297290297344_n

ブログ第1弾は九十九里だった

九十九里片貝海岸、民宿「早船」での2回目となる冬合宿が終わった。ここに来ると不思議と田舎の実家に帰ったような気分になる。優しく人懐っこい女将さんと息子さん。畳の部屋。潮の香り。豪華なホテルじゃない所が一番いい。参加者は少なかったが、色々な面で夏とは一味違う意義ある合宿となった。凄いダイヤの原石も見つけることが出来た。

東日本大震災の影響で総本部主催で行われていた夏合宿が中止となった。翌年から支部単独で夏合宿を行うようになった。合宿専門誌で見つけたのが、九十九里片貝海岸の民宿「早船」だった。それ以来毎年、早船さんにお世話になっている。東日本大震災の翌年からだから、2012年の事である。実は、支部のホームページを開設して「師範ブログ」を始めたのもこの年からだった。一番最初のブログは何だったかなあ?と遡ってみたら・・・盟友藤川監督の話だった。夏合宿も登場する。しかし、8年経って重大な過ちに気付いた。記念すべき1回目のブログを公開していなかった。初めての事だったので、作成したものの操作を完了せず“下書き”のままになっていた。『公開』ボタンを押し忘れていた。

と言うわけで、本邦初公開!幻の師範ブログ第1号がこれである。

         師範ブログ 第1弾「男と男の約束の日!」 2012.06.30

昨年の世界大会二日目、東京体育館南側2階席に白いワイシャツの集団がいた。時折『ニッポン!ニッポン!』と、日本選手団に熱い声援を送っていた。この約100名の集団こそ、日本が世界に誇る国際武道大学サッカー部員達であった。この名門サッカー部を率いるのが、サッカー元日本代表ゴールキーパーの藤川孝幸監督である。 新極真会の大会相談役でもある。藤川監督とは同じS37年生まれで、もう十数年来の友人でもある。昨年の夏、藤川監督より国際武道大学のサッカー部の愛弟子達に、『真の武道の厳しさを教えて欲しい。極真魂を叩き込んで欲しい』と。緑代表を通じて講演と演武の依頼があり、8月10日に実現した。

高卒の自分にとって、ましてや大学の名前に武道が付いており、千葉県民としても以前から興味を持っていた大学でもあった。人生は一度きり、男なら勝負!と演題を付けて自分の今までの「空手人生」を語り、2時間稽古をして型と試割の演武を行った。稽古後の太平洋の大海原を臨みながらの野外バーベキューは格別であった。何よりエネルギッシュな若い大学生にこちらが、パワーを貰ったことを昨日のように記憶している。最高の夏の想い出となっている。

帰り際に藤川監督より「日本選手団の優勝を信じています。10月の世界大会はサッカー部員全員で応援に行きますから。」と約束をしてくれた。藤川さんは国際武道大学サッカー部の監督、いずれはJリーグの監督になる日が来るであろう。自分も今は新極真会日本代表チームの監督をしている。『お互い監督と監督同士、頑張りましょう!』と固い握手をした。自分も「また機会があったらまた国際武道大学に来ます。」と約束をした。

そして、10月23日の決勝の日、藤川監督とサッカー部員は男と男の約束を守り日本選手団の応援に来てくれたのであった。そして日本が奇跡の男女W優勝を成し遂げたのである。

藤川監督から2,3日前に電話があった。「奥村師範、今年も是非武道大学に来て下さい』と。「押忍、喜んで行かせて貰います。」と、かくして2回目の講演&演武稽古会が決定した。お互い多忙な身、二人で日程調整して8月10日と決まった。偶然にも昨年と同じ日となり不思議な感じがした。昨年夏の終わりにサッカー部員全員から講演&演武の御礼の手紙が届いた。こんな嬉しいことはなかった。だから自分も男と男の約束を守り、この夏国際武道大学の門を再びくぐる。指導とかそういうのを越えて彼らと一緒に最高の汗をかいて来ようと思う、世界大会で日本代表選手団が着たあのお揃いの赤いユニフォームは藤川監督のご尽力によりSP用品メーカーのミズノさんの提供で実現したものである。今年は日本代表選手として戦った我が弟子河鰭を連れて行こうと思っている。二人で揃いの日本代表ユニフォームを着て。

8月10日の翌日から、千葉南支部奥村道場の夏合宿を九十九里海岸で行う事になっている。偶然日程が続いたが、藤川監督も吉岡コーチと快く参加を引き受けてくれた。合宿では日本代表強化合宿でも行ったサッカーのフィジカルトレーニングをやってくれる事になった。重ねて嬉しい限りだ。

男と男の約束を守るため、国際武道大学へ行って来ます。

8月10日は『男と男が約束を守る日』かな!