Category Archives: 師範ブログ

201123_2306~01

浦島太郎になる所だった!

30年振りの六本木!

ホテルから会場までの徒歩、昼間は箱の中。観光で行った訳ではなかったので30年振りの感慨に浸る余裕など全くなかった。敢えて言えば、街にそびえ立つ今や六本木大発展の象徴ともなっている六本木ヒルズを初めて目にし驚いた。まだまだ六本木は発展の最中である。泊まったホテル自体も今年7月にオープンしたばかりの高層ビルの大ホテルだった。今年初めての遠征。加曽利村から出て来て、大都会の発展に田舎者の自分の存在が小さく思えた。

いや!コロナ禍の中で無観客で開催された大会。次の日から繰り広げられる厳しい戦い、厳しい結果に一年前の世界大会男女W優勝の面影が小さくなっていった。たった一年の間に世は下克上となっていた。

男子は65名中、他流派選手が18名。内欠場者は2名。小さな山の1回戦が1試合だけあった。実質は2回戦が初戦となる。16名で初戦(2回戦となる)で負けたのは1名のみ。二日目のBEST32に15名が進出した。新極真会は17名、かろうじて勝った?いや、もうこの時点で今までのトーナメントとは違った。15名の内、3回戦を勝ち抜いたのは5名。BEST16に他流派5名。BEST8入賞を掛けた最も激しい4回戦を迎える。世界大会日本代表選手が名を連ねる。4回戦まで進めばいい方である。この4回戦に来るまでに多くの日本代表選手が負けて行った。初戦で負けた選手さえいる。たった1年で世(戦場)は変わっていた。5名の内4名がBEST8の関門を突破した。他流派から4名の選手が入賞を果たした。無差別の全日本大会で初めての事である。主審をした試合で、目の前で日本代表選手が上段ヒザ蹴りで一本負けした。若干17歳の初出場の選手に倒された。3位に入賞した他流派選手はまだ21歳である。厳しい(戦いになる)のはむしろこれからである。

これからも益々厳しい戦いが続く。

男子決勝戦は新極真同士の戦いとなって組織の面目は一応保たれた。はっきり言えば女子は王座奪還どころか、全ての面でもう他流派に逆転された。

男女W優勝を果たした世界大会から丁度一年。絶対王者のふたりが欠けていたとはいえ最強の日本選手団のメンバーだった選手で臨んだ一年後の全日本大会でこのような結果となった。日本代表選手として臨み、世界大会で結果を出した新極真会と結果を出せなかった他流派の組織。世界大会にさえ選ばれなかった他流派の多くの選手達。あの日から一年の間の精進に差があったに違いない。コロナ禍の中で如何に刀を磨いて来たかが問われた大会だった。他流派選手達は悔しい思いをしながら、来たるべき日のために精進を怠らなかったに違いない。男女の世界を制し安定した世の中になると思っていたが、世は既に下克上となっていた。

コロナ禍の状況の中で無観客ではあったが、組織は大会開催を英断した。大会自体は数々の運営面の試練を乗り越え素晴らしい大会となった。組織には感謝の言葉しかない。大会前日金曜日はホテルで弁当を食べた。土曜日は三好副代表とふたりで食事をした。日曜日はいつものメンバー4人で。1年振りの交流だった。それはそれで意義があり楽しかった。ホテルに戻って厳しかった大会結果だけが頭をよぎる。コロナ禍でもし今年全日本大会が開催されていなかったら・・・あの大勝利の世界大会からもっと日にちが空いていたら・・・・ベッドに横たわり天井を見つめながらこう思った。

・・・・になる所だった!

5月のWFKO大会が中止。3月の日本選手団強化合宿も11月のユース合宿も中止となった。組織が世界大会から丁度1年後、乙姫様がくれた玉手箱を開けてくれて良かった。これが2年後だったら男子さえ逆転されていたかもしれない。そう感じさせる他流派の大躍進劇だった。大会に選手が出ていない支部の方が多い。選手を出している支部長と出していない支部長とでは正直温度差を感じる。BEST16まで渡邉兄弟は残った。あと一歩で入賞を逃した。塚本(支部長)の思い、語るまでもない。千葉南?初戦で負けました。

応援ありがとうございました。

敗退した選手は即退館しなければならなかった。試合の後、翔希も翔太とも会場で会話出来なかった。翔希は夜電話が来た。初日、三好副代表との食事が終わってタクシーでホテルに帰った。ホテル近くのコンビニに行ったら、な、な、なんと有名な那須兄弟に偶然にも遭遇した(笑)。那須兄弟は仲良くふたりで食事して買い物してコンビニを出る所だった。もし数秒でもずれていたら那須兄弟には会っていなかった。偶然はまだまだ続く。ホテルも同じだった(笑)。

「翔太、奎太、ちょっと部屋に来るか!」

大会前々日の木曜日。大会出場選手の翔太とセコンドの奎太は休み。もう1カ月も前から年末年始も含めて道場休みのお知らせは貼ってある。今日は稽古ありますか?とメールで聞いてくる道場生がいた。あるよと返事したら、今度は翔太先輩は稽古来ますか?と訊いてきた。来ないよと返事した。メールするくらいだから稽古に来るかと思っていたら来なかった。

師範は所詮お友達だった(笑)。

反対に、木曜日は船橋道場の稽古で師範は不在。指導する人がいないだろうからと心配して来てくれた道場生がいた。“もう黒帯だな!”と思った。空手も礼儀も同じである。教わっただけで身に付くものではない。環境もあろう。本人の考え方や資質もあろう。子供と大人の差、経験も大きい。でも教わらなかったら身に付かないのか、勝てないのか。それでいいのだろうか?今回の厳しい大会をどう思ったか?個々に全く違うだろう。自分の敗退の事だけしか思わない選手の方が多かろう。無観客だからしようがないが、映像と生の試合は全く違う。全国の道場生達が何を感じたか?自分には知る由もないが。ヒントだけかもしれないが、大山総裁は“極意!”を我々に教えてくれている。

那須兄弟とコンビニで会った事もホテルが同じだった事も、偶然だったかもしれない。しかし、厳しい勝負の世界に偶然など有り得ない。努力精進を続ければ必ず報われる。勿論結果だけではない。誰かが言った。流した汗は嘘はつかない!暫く冬が続いた入来建武選手が見事な復活劇を果たした。多くの日本代表選手達が敗退して行く中で22歳茶帯の多田成慶選手が入賞を果たした。この復活劇も初入賞も決して偶然ではない。

勝負の世界に偶然はない!

結果には必ず原因がある。世の中には全て因果の法則がある。原因があっての結果である。選手達にはしっかり大会を振り返り原因を見極めて、これから益々の精進を期待するばかりである。自分自身も組織としてこの結果を真摯に受け止め、これから選手強化に邁進する覚悟である。もう次の戦いは始まっている。

“翔太、1年前の(形ばかりの)ワッペン外してて良かっただろ!”

一度でも日本代表選手として世界大会に出場したらその誇りはいつまでも持って欲しいと思う。今の自分があるのは、その誇りと組織に対する報恩感謝の思いである。しかし、いつまでも形だけの日の丸にしがみ付いて欲しくない。戦いが終われば、右肩に日の丸はない。

日曜日大会後の支部長会議の後の食事会。第4回世界大会の同志4人で行った33年経っても変わらぬ絆に感謝するばかりである。ホテルに帰りベッドに横たわって天井を見つめながら思ったこと。それは・・・

(厳しい結果となったが、コロナ禍でもし大会が開催されていなかったら)

浦島太郎になる所だった!

下克上だからこそ 誰にでもチャンスはある!

 

201120_1118~01

我が青春の六本木!

『個人にとって最も重要なのが努力であることは、いままで述べたとおりだが、では組織にとってもっとも大切なことは何だろうか。私は「和」だと考える。・・・「地の利は人の和に如かず」孟子は、兵法には三つの要素があると考えたといわれる。“天の時”と“地の利”と“人心の一致”である。・・・孟子は、“人の和”に最優先順位を付けたのだ。」大山倍達総裁著書 わがカラテ 覇者王道

全日本大会が大都心六本木で開催される。

六本木で空手道選手権大会が・・・全くイメージが湧かない。六本木は新宿や池袋みたいな夜のイメージが強い。しかし、六本木はクリーンさを兼ね備えている。隣は麻布や赤坂、青山と続く。テレビ朝日がある。諸外国の大使館が立ち並ぶ。国内有数の芸能事務所の宝庫の街でもある。六本木は詳しい。何故ならサラリーマン時代に2年間勤務したから。千葉の寮から2時間掛けて通った。今から丁度30年前の事である。

六本木が華やかな街だから好きだったのではない。華やかな街で勤務したから記憶に残っている訳でもない。キャバクラやディスコにも行った。正直言えば自分は華やかな場所よりも赤ちょうちんがぶら下がった小さな居酒屋で飲む方が好きである。もっと言えば、仲睦まじい老夫婦がふたりだけでやっているカウンターとテーブルが1,2個あるくらいの店が大好きである。西千葉にあった。後楽園にもあった。焼酎のボトルをキープする時はいつもこう名乗った。飲む時は芸名があった。店に顔を出すと女将さんがこう言った。

「管原さん、ボトルまだありますよー!」

映画俳優の菅原文太さんが大好きだった。

千葉から役所のある六本木までは遠かった。通勤は最悪だったが、2年間の勤務はやり甲斐もあったし楽しかった。熊本での1年間の研修と船橋での3カ月の短期研修を終えて第一線の職場に配属された。幕張にある千葉西を皮切りに日本橋、江戸川、本店、六本木にある麻布と転勤した。麻布以降も転勤は続く。20年の在職中に10回くらい転勤した。振り返って一番良かった所は?と訊かれたら。

文句なく麻布(六本木)と答える。

仕事の面だけ考えると、この麻布の次に転勤した本店勤務時代の3年が一番かもしれない。本店ビルのど真ん中の5F時代が仕事的には一番きつかったが一番やり甲斐があった。東京駅から徒歩で通った。皇居の直ぐそば、昼はよく散歩した。大手銀行や有名大企業の本店が立ち並ぶ。官房系だったので各課との接渉が多く、人的にも多くのことを学んだ。そこは仕事が出来て当たり前の所だった。もう一度サラリーマンに戻ってやりたい場所は?やりたい仕事は?と訊かれたら・・・

大手町1丁目ですと答える。

仕事は大手町、人は麻布(六本木)時代が一番だった。

5月の全日本ウエイト制大会重量級で4位に入賞し、正式に第4回世界大会の日本代表選手に決まった。夢にまで見た世界の舞台!11月の大会に向けて死に物狂いの稽古に励んでいる時、7月の定期異動で本店から新しい課長が来た。同期でトップを走る大卒の40歳くらいのバリバリの若い課長さんだった。仕事は厳しかったが、5時以降は普通のおじさんに変貌した(笑)。お酒もカラオケも麻雀も大好きで面白い人だった。面倒見がよく部下に慕われた。“この人のためにも頑張ろう!”そんな思いを持ったのもこの時が初めてだった。仕事をして何んぼ!の世界である。所詮国家公務員、実績が全てものを言う。特に上司は大変である。毎月報告がある。棒グラフで本店から比較される。

(仕事で結果出して)この人を男にしたい!そんな上司だった。

週休二日制ではなく、まだ土曜日が半ドンの時代だった。世界大会の時、その上司は金曜日から休暇を取って3日間全て日本武道館に応援に来てくれた。ビデオカメラを持って部下である自分の世界の舞台に立つ雄姿を記録してくれた。4回戦で後ろ回し蹴りでノックアウトされた時も、少しもぶれずに最後まで撮ってくれた。担架で運ばれるシーンまでちゃんと撮ってくれた。不動心を学んだ(笑)。もちろん、当時から会場内での撮影は禁止だったにもかかわらず。

第4回世界大会のビデオは自分の生涯の宝物である。

その課長さんと麻布(六本木)でまた同勤することになった。課は隣だったが、4年振りに同じ部の課長に着任して来た。江戸川時代に続き自分が2年目の時だったので、部内の元気のいい若いやつらをまとめていたので感謝された。仕事の面以上に5時以降の若手職員の団結に貢献したので、その課長さんには頼りにされた。あの麻布の2年目の1年間はサラリーマン生活20年で一番楽しかったかもしれない。六本木の街がそれに花を添えた。ましてや独身だったから尚の事(内緒)。芸能人にもよく会った。街や店で。一番は何かの記念行事で憧れの映画スター管原文太さんが教養講話に来てくれたことである。最高だった。街でスカウトされそうになった事もあった。よく自分は声を掛けられた。“もしかして極真空手の奥村さんじゃないですか?”って。場所が場所だっただけに、“人違いじゃないですか。私は管原と言います”って。インターネットもユーチューブも、K-1も総合格闘技もない時代である。極真はあまりにも有名過ぎた。分裂前の世界選手権!超の字が幾つも付くほど世間に認められていた。

5時以降はその課長さんを中心に、部内で課を越えて自然と気の合う仲間が集まった。当時、テレビドラマで人気を博し、芸能界の中でも一番の団結力を誇った石原プロモーションのその呼び名にあやかり、同じ名前を付けた。課長さんが石原裕次郎さんと同じ苗字だった。

石原軍団!と名乗り、課長さんのことをメンバーは“団長!”と呼んだ。

石原軍団の中の後輩が住む独身寮が後楽園にあった。石原軍団行き付けの店が自然と後楽園にできた。遅くまで飲んで千葉まで帰るのが苦痛で、後輩の寮によく泊まらせて貰った。団長は行かなかったが、若手の野郎4人で伊豆七島の式根島に旅行したのはいい思い出である。当時の自分らを見たらとても公務員には見えなかったと思う。

20年前に退職した。空手の道を選んだ。何人かの当時の先輩や仲間が道場に顔を出してくれた。いまだに年賀状をくれる仲間もいる。最近はご無沙汰だが、石原軍団は自分が退職しても忘年会をしたり何度も集まっったものである。団長は、千葉南支部奥村道場の相談役である。世界ウエイト制大会の優勝祝賀会では、三好副代表の主賓挨拶に続いて乾杯の発声をお願いした。自分にとってはそれだけ大切な人なのである。

だから場所ではない。人である。あの六本木の地で勤務した時代の仕事仲間が貴いのである。道場には少し遠のいた時期ではあったが、間違いなく自分の熱い青春時代を飾った日々でもあった。我が青春の六本木でいよいよ世紀の決戦が開催される。自分にとっては30年振りの六本木でもある。

大山総裁は仰せである

『・・・どんなに天がわれに味方しても、地の利に恵まれても、人の和合の力にはかなわない・・・努力し、団結することを覚えたら、人間、どんなに強く頼もしいだろうか。

人を愛し、人を利する者は、天必ず之に副(さいわい)す)

人を愛し、人のためによいことをする者には、天が必ず幸福を授けるという意味である。』

新極真会の一員であることを心から誇りに思う。今は苦難の時代ではあるが、この時代に緑代表をはじめ多くの仲間と同じ組織の中で歩んで行けることを心から幸せに思う。

人の和とは、即ち“団結!”である。天の時が来た。

いざ出陣!

決戦の地へ行って来ます。

天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず!

201115_1219~01

伝統継承せよ!

コロナ禍で今年のユース合宿が中止となる中で、木曜日に「我が青春のユースジャパン!」と題しユースジャパン15年の歴史と想いを綴った。そのブログの最後・・・

「緑代表の号令で、500人のユースジャパン選手団が富士山を背に正拳中段突きをする様を全国に届けたい。」

翌金曜日、またもやひっくり返りそうになった。しかし、今回は驚き以上に超嬉しくて。三好副代表が、いよいよ来週末に迫った全日本大会と共に中止となったユース合宿について投稿していたのである。その写真を見て驚いた。富士山を背にユースジャパンのワッペンを付けたユースジャパン戦士達の写真。先頭の列の中央にはもちろん緑代表がいる。500人のユース日の丸軍団がまさに正拳中段突きをしている写真だったのである。

同じ日に同じ場所に同じ思いを馳せていたことに驚いた。15年続いたユースジャパンの歴史と伝統。コロナ禍で今年の合宿が中止となった無念さの中でも希望を持ち、いよいよ1週間後に迫った世紀の大決戦に希望を託す。大袈裟に言えば、この地球上に同じ思いをしている人がもうひとり居たことに最高の幸せを感じたのである。当然と言えば当然である。ユースジャパン立ち上げから今日まで二人三脚でユースジャパンを率いてきたふたりだったから。ユースジャパン10周年の年、その大発展の貢献と功労に対してふたり一緒に組織から「新極真賞!」という最高の栄誉を頂いた。三好副代表に“同じ日に同じ場所に同じ思いをしていたんですね”とメッセージを送ったら、やはり驚かれていた。

“来年は赤鬼コンビ復活だね!”

昨年のユース合宿の時の事である。三好副代表は海外遠征と重なってしまい、初めて不参加だった。最後の稽古が終わり、体育館での解散式も終了し、“解散!”の号令を掛けた時の事である。その後はいつものパターンで支部ごとの記念写真や合宿で知り合った仲間同士で撮影が続く。3日間浸食を共にした仲間同士の固い握手と挨拶が延々と続く。コーチ陣と、選手達と。事務局やJTBさん、ライトハウスさんと。選手達が立ち替わり入れ替わり挨拶に来る。その中で一番に自分の所に来た支部道場生、目をギラギラに輝かせている。元気一杯な挨拶と堂々とした不動立ちが3日間の強化稽古をやり抜いたことを証明している。知っている顔が何人もいる。真っ先に挨拶に来てくれたのは三好副代表の愛弟子達だった。大和魂を継承する高知支部と愛媛支部の道場生達だった。超にもうひとつもふたつも超の字が付くくらい嬉しかった。一緒に記念写真を撮った。

「今日は千葉の赤鬼さんと写真撮ろうかな!」

彼らはふたりの関係をよく知っている。ふたりがどんな深い関係にあるか(笑)。どんなに固い絆で結ばれているか百も承知なのである。ふたりで日本代表選手団とユースジャパンを率い、全幅の信頼で結ばれていることを知っている。いつもALL JAPANの赤いジャンパーでふたりで写真を撮っていることも。奥村師範が全四国大会の打ち上げパーティーでいつも締めの挨拶と正拳中段突きをしている姿を毎年見ているから。ふたりがこう呼ばれているのを知っている・・・

(高知と千葉の)赤鬼さんコンビ!だと

残念ながらユース合宿は中止となった。しかし、ユースジャパンの進化は止まらない。どのような状況にあろうが、どんな試練が待ち受けていようが前進あるのみ。今年はいい充電期間となった。見つめ直すいい機会にもなった。この一年を無駄にはしない。次の大きなステップの足掛かりとせねば。一年会えなかったけれど、その分大成長した選手達に会う楽しみが増えたというものである。

本来なら今日が合宿最終日だった。偶然にも全日本大会直前の最後の朝練の日となった。いつもの4人だけの稽古だった。少年部は敢えて呼ばなかった。翔太の最終調整をしながらユース合宿のつもりで指導した。

祥太はホント分かり易い男である。以前、ブログで初代桃太郎大智のことを綴った。自分の若き現役時代の少年部指導員の頃の話を書いた。その何日か後、翔太が少年部に出させて下さいとお願いに来た。

「翔太、ブログ読んだか?」

押忍!

少年部の指導は、全日本選手の翔太にとって掛け替えのない経験になると思い、もちろん了解した。木曜日、「我が青春のユースジャパン」でユースジャパンへの思いを綴った。ドリームもない!ユース合宿もない!そんな年のユースワッペンについて敢えて厳しく書いた。今日の朝練の時、翔太はユースワッペンを外していた。(実は昨日から外していたらしい)

「翔太、ブログ読んだか?」

押忍!

翔太はホント分かり易い男である(笑)。金曜日にユースジャパン15年の思いを心魂込めて書いた“伝統継承の書”を卒業証書代わりに渡した。もちろん金(ゴールド)ではない。ゴールドは12月四国に持って行くから(内緒)。

何気に紫穏の道着の右肩見たらワッペンがなかった。ワッペン外した糸の跡が残っていた。ブルータス、お前もか!いや、“紫穏、お前もか!”と内心まさかとは思いながらも訊ねた。

「紫穏、(ブログ読んでお前も)ワッペン自分で外したのか?」

「いえ、糸が切れて取れそうだったので取っちゃいました。押忍」

ひっくり返りそうになった。ばかもん!どんな激しい稽古しても絶対に外れないようにしっかりお母さんに縫って貰え!弱いヤツはいつまでもワッペン付けとけー(笑)!

ユース合宿に一度も行ったことがない奎太と天羅と。この4人の朝練、最高に指導の甲斐がある。強くなるかどうかは本人達次第だが。黙ってても稽古に来る。コロナ禍でも来る。気合い入れろと言ったら気合い入れる。単純だから。いや、素直だから教え甲斐がある。実は、この素直さ!が一番の素質かもしれない。押忍の返事、声色を聞けば大体分かる。奎太は来年の昇段審査、受審申し渡した。あとのふたり、近づいて来たかな(秘)。

翔太、奎太、天羅、紫穏、千葉南支部の先輩を越えよ!自分の空手道を築け!

伝統継承せよ!