Category Archives: 師範ブログ

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龍翔鳳舞

国際交流どころか!あわや国際問題になる所だった(内緒)。中国警察に連行されなくて良かった(笑)!

3月の中国上海遠征。弟啓治(師範)と7年振りに兄弟揃って中国の大地に立った。4泊5日の遠征で普段は観光などしないが帰国を翌日に控えた最終日、上海随一の観光名所「外灘(ワイタン)」に向かった。勿論、ただの観光に行ったのではない。ここ外灘は、啓治にとっても自分にとっても最も忘れられない場所のひとつでもある。外灘は、16年前に啓治が三戦や転掌の型のデモンストレーションをしながら新極真空手を広めた場所である。自分が初めて中国に行った時、観光で最初に連れて行って貰った場所でもある。道着こそ着なかったが、兄弟ふたり並んで上海タワーを臨みながら啓治の途轍もない冒険心とその苦労の足跡に心で泣いた事を今でもはっきりと覚えている。何度も中国大会などで遠征したが、あの時以来啓治と外灘に行くことはなかった。

かくして啓治と二人の世紀の外灘ツーショットが実現した。勿論、日本から龍翔鳳舞の法被を持参した。昨年の8月、福岡県大会の時に実家に立ち寄った際に法被を1枚プレゼントされた。10着?10枚?以上はあっただろうか?正直言うと、自分は龍や般若の法被など好きではない。そんなもの日本で千葉でいつ着るんだと思っている。しかし、啓治の思いは心に沁みるほど分かっていたから、自分の為に作ってくれた龍翔鳳舞の法被だけは持参した。

外灘は豫園(ヨエン)と並び上海随一の観光名所である。世界中から観光客が集まる。その夜景の美しさから夜の方が観光客は多いかもしれない。警備も当然厳しい。ましてや共産圏の国家である。場所も場所、厳重な警備体制が布かれている。

いつもと同じ立ち位置の場所に着くや法被に着替え始めた。啓治は着ている。空港でも、レストランでも、道場でも。一人の中国警察が近寄ってジロジロ見始めた。正確には監視し始めた。法被だけならまだしも、鉢巻までしたからさあ大変。鉢巻には日の丸に日本という刺繍も入っている。いつの間にか警察官が10名近くにもなっていた。啓治がいつものように“新極真会!”と叫ばなければいいなあと内心はびくびくしていた。ところがもっと凄いことをし出した。啓治が「馬!馬!!」と言い出した。最初は分からなかったがゼスチャーで分かった。騎馬戦の騎馬か?そうそう“騎馬!騎馬!!」騎馬なんか小学生の時の運動会以来である。啓治は体重100㎏近くはある。おまけに啓治は右半身が動かない。なかなか騎馬に乗れない。とうとう様子を見かねた警察官がやって来た。

『貴様ら、何をしている?おかしな物を着て・・・鉢巻して、日の丸とは!日本人かあ!!何を企んでいる。貴様達は何者だあ!ここを何処だと思っている?』

多分、訳すとこんな事を言ってたのではないかと雰囲気で思う(笑)。

孫師範代が一生懸命対応してくれた。師範代にこう説明するように言った。

『20年前、日本から上海に渡って来た空手家が中国で空手を広めていたが病気で倒れた。その空手家が7年振りに仲間と日本から来て、今記念写真を撮っている所です!世界でも有名な空手の先生です。』と。

師範代が言うには、お揃いの法被に不審を持ってるらしいと。最終的には師範代が中国人の身分証明の「IDカード」、三芳さんと啓治のパスポートを提示させられて事なきを得た。啓治が車椅子だったことが幸いした。台湾支部長の池田君が武道の刺繍の入った空手Tシャツを着ていたのが幸いした。もし、日の丸鉢巻に“神風!”と入っていたら連行されていたに違いない。自分と陽孝はALL JAPANの赤の日本代表ユニフォームを着ていたから。決戦の年に中国で連行されていたら洒落にならなかった(笑)。

中国警察には睨まれてしまったが、世界中から集まった観光客には受けたようである。特に空手着と法被姿の啓治は大人気だった。珍しそうに我々の写真を撮る人だかりができた。中には一緒に撮って欲しいと願い出る者もいた。月曜日でなく、日曜日だったらもっと大きなパニックになっていたと思う。

道場で稽古をした時の顔の厳しさは全くなかった。啓治は終始笑顔だった。あんな嬉しそうな啓治の顔を見ることが出来て自分も嬉しかった。昨年3月も同じ場所に来て写真を撮った。孫師範代が気を使って、兄弟ふたりが上海タワーを臨む合成写真を作って送ってくれた。しかし、今回は合成ではない。二人揃って思い出の地に立つ事が出来た。こんな日が本当に来るとは!正直、叶わない夢だと思っていた。しかし、諦めないで良かった。いや啓治は一度も諦める事はしなかった。多くの人に仲間に支えられて実現した。支えられたのは啓治だけではない。自分も多くの人に支えられた。奇跡を信じ多くの人が祈ってくれた。

これでハッピーエンドの終わりではない。いまだ啓治の右半身は付随、全く動かない。この日が新たな次のステージへの戦いの始まりでもある。啓治とお揃いの“龍翔鳳舞!”の法被を着た同じ日、同じ場所で。陽孝とALL JAPANのユニフォームを着て立った。兄弟が新たな戦いのスタートに立ち、師弟は来たる大決戦の大勝利を誓った。

奥村啓治師範が11月東京に来る。世界中の師範道場生が喜んでくれるに違いない。ブルガリアのポポフ師範は男泣きするだろうなあ。

秋の決戦 日本代表選手団が、奥村啓治師範の前で世界一の戦いをする。

日本代表選手団が龍の如く天空へ翔たく 鳳凰の如く天空を舞う!

日本代表選手団が龍翔鳳舞となる。

 

 

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人は石垣 人は城!

啓治と上海でデビューした。合わせて十段、114歳。リンリンカンカン。

♪酒は呑め呑め呑むならば・・・♪”

福岡県の人なら誰でも1番は唄える有名な黒田節。そして、曲名しか知らない武田節。2曲も披露した。中国から帰っても脳裏に焼き付いて離れなかったのは武田節の方だった。

♪ 祖霊まします この山河

   敵に踏ませてなるものか

   人は石垣 人は城

   情けは味方 仇は敵 仇は敵 ♪

色々な想いと決意で初めて開催した冬合宿だった。翔平から乞われて、これまた初めて書いた言葉・・・

 “団結!”

ぶっつけ本番、たったの1枚だけ書いた。重みのある言葉である。アスタナでの日本代表選手団の7階級制覇の大勝利。7人の世界チャンピオン達が口々に揃えて言ったこと、7階級制覇の大勝利の一番の要因は?日本選手団の団結!そしてユースジャパンがあったから!と。

自分が団結と書いている時、陽孝はただひたすら“王座死守!”と書いていた。

偶然にも年末に聞いた天の声。大山総裁が仰せである。

組織で最も大事なのは“人の和!”であると。即ち、団結である。

冬合宿の書初めの時までは、応援Tシャツは“絆!”で行こうと思った。何枚か書いたが、正直納得の作が出来なかった。ある時、団結で行こうと思った。そして、千葉南軍団で行こうと思った(笑)。

千葉で常設道場を出した時、道場の相談役になって貰った人がいる。自分が公務員時代の元上司である。世界大会に出場した時の直属の課長さんである。陽孝の優勝祝賀会では乾杯の音頭を取って頂いた。名前が石原と言ったので、当時芸能界で人気を博していた石原裕次郎さん率いる石原プロダクション、渡 哲也さんや舘ひろしさんなど錚々たるメンバーを擁し、その鉄のような固い絆から「石原軍団」と呼ばれていた。石原さんのことは課長とは呼ばず、皆団長と呼んでいた。石原軍団にあやかって、千葉南軍団にしようと思った。

中国上海遠征の初日の夜、部屋で啓治から懐かしい写真の数々と1通の茶封筒を貰った。写真はその場で見たが、封筒は開けなかった。帰国して何日目だっただろうか?少し落ち着いた頃に開封して驚いた。またまたぶっ倒れそうになってしまった(笑)。三つ折りにされた手紙が入っていた。啓治が介護でいつもお世話になっている坂口さんからの手紙だった。今回の兄弟揃っての遠征を心から喜んでくれた。啓治が黒田節と武田節を唄う前に紹介して下さいと、唄の解説までしてくれていた。・・・遅かった。紹介しなかった(内緒)。

黒田節:奥村両師範が生まれ育った福岡県に伝わる民謡です。・・・省略

武田節:四百五十年前の日本は戦国時代。全国に英雄が群雄割拠し、天下統一を目指していました。日本の真ん中辺り、甲斐の国の武将・武田信玄は他の武将のように城を築くことなく「人は石垣、人は城」と唱えて人の和を重んじ、最強の「武田武士」軍団を構成していました。この唄は天下統一の為に京都に向かう武田武士軍団の出陣の模様を語った唄ですが、単身中国に渡り「新極真魂」の種を蒔き、育て、心ならずとも病に倒れ言葉と右半身の麻痺という後遺症に見舞われながらも、今なお再起を目指して懸命に不屈の新極真魂でリハビリを続けている奥村啓治師範に対する応援歌でもあります。

啓治が空手ライフの特集で取材を受けた時、松井さんを実家や東犀川三四郎駅、闘魂神社に案内してくれたのが坂口さんだった。手紙を読んで、その深い想いに感動した。夢の山・世界の山を支える底辺の石垣、人の和、最強を目指す・・・まさに軍団。軍団まで一緒とは。またまた偶然が重なり驚くばかりであった。繋がった。

だが現実は甘くない。人間関係ほど難しいものはない。これまでも多くの人が去って行った。啓治とて別れの連続だった。中国の空手界事情は想像以上である。100単位で動く(笑)。しかし、去る人がいる中で新極真会に憧れ、奥村ツインズを慕い(笑)、新しい仲間も増えている。6年間復帰を信じて待ち続けてくれた人もいるのも事実である。6年どころか、中国支部設立以来、16年間ずっと啓治を慕い続けて付いてくる道場生もいるのも事実である。孫師範代、王玲。

人生は出会いと別れの連続でもある。

この世に光がなかったら、この世は真っ暗闇である。

千葉で少年部修了式をした日、中国から嬉しい便りが届いた。千葉南支部の桃太郎達から預かった親書が、中国北京の桃太郎達に渡った。金先生からのメールだった。そこには満面の笑みで手紙やプレゼントを手に持つ桃太郎達の姿があった。暗闇に一筋の光明が射したような気持になった。いつの世も、子供達の純心な姿は心を和ませてくれる。

♪桃太郎は光 桃太郎は宝♪

我 日中友好の虹の懸け橋とならむ

発表します。奥村師範が考える新元号は?

未来輝く時代の到来を願い・・・『来輝』

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使命!出会いは奇跡を起こす

啓治と二人揃っての道着姿は2013年の総本部鏡開き会が最後だった。その年も決戦の年だった。第5回カラテワールドカップ(リトアニア)の年だった。啓治が病に倒れてから6年、記憶が正しければ7年振りに中国上海の地に兄弟で立った。

ある人が言った。人の力で一番強い力は・・・“信じる力!”である。

病院での限りの治療を終え、温泉で有名な大分県湯布院の施設にいる時にお見舞いに行った。倒れてから初めて見る啓治の姿は生きる屍(しかばね)だった。空手どころか半身不随で歩くことも会話すらも出来ない。トイレも垂れ流し。生きる希望もない中で激痛のリハビリに耐えるだけの毎日。命よりも大事な空手が出来ない。啓治の初期の頃の闘病生活は真っ暗闇の地獄絵にさえ見えた。

そんな出口の見えない暗闇の中に一筋の光明が射した。緑代表が心閉ざした真っ暗闇の啓治の心に光を当てたのである。地元の後輩に命令して啓治を福岡県大会に呼んだのである。

病院と自宅以外で初めて会う啓治の姿は生き生きとしていた。大会会場で紺色の審判シャツと白ブレザーを着た啓治の姿は、間違いなく新極真会支部長の姿だった。杖をつき会話は出来ずとも、間違いなく新極真会の五段の師範の姿だった。それからである。啓治は積極的に人前に出るようになった。会話もするようになった。生来の負けん気に火が付いた。左手で書や絵を描くようになった。エスカレートして毎年福岡に行く度に、プレゼントの龍画が大きくなっていった(笑)。

第17回全日本大会を最後に空手から遠ざかった。野垂れ死に寸前に暗黒街から啓治を救い、師範代にまで任命してくれた緑代表。病に倒れ人生のどん底にいる啓治をまたもや救ってくれたのは、またもや緑代表だった。右も左も分からぬ福岡の地に支部長に任命され、師範代の啓治と二人三脚で日本一の支部に育て上げて行った。だからこそそんな二人の絆が奇跡を起こした。

緑代表こそ、啓治の奇跡の復活を一番信じて待っていてくれたのである。それは偶然でも奇跡でもなく、緑代表にとっては必然の事だったのである。

緑代表の与えた“使命!”が啓治を蘇らせたのである。

遠征初日、現地で軽い昼食を取ってホテルで休憩しながら啓治の到着を待った。福岡からの飛行機が遅れ、1時間オーバーで合流した。疲れただろうと気を遣い、夜の稽古は自分と陽孝だけで行くからと啓治に言うと。

「道場!道場!」と左手で拳を突き出した。

啓治はホテルで道着に着替えた。休む間もなく道場生達の待つ中国支部上海本部道場に向かった。

道場正面には、「死力達成!中国上海奥村道場」の旗が掲げらていた。自分が以前孫師範代にあげた「この道より・・・」の書がわざわざ額縁に入れられてあった。

『五段 師範 奥村幸一 奥村啓治』

二人の名札が並んであった。二人の支部長がいるのは世界広しと言えども、中国支部だけである。孫師範代の思いを知ると心で泣いた。福岡支部時代も今も永遠の師範代として緑代表を慕う啓治の心と重なり泣けた。

自分が挨拶する間も準備運動する間も、啓治は用意した椅子には座らなかった。啓治の気合いは誰よりも大きかった。啓治の左中段突きは誰よりも力強かった(涙)。稽古の後、自分と陽孝に続いて啓治が最後に挨拶した。兄弟で7年振りに道着を着て中国上海の地に立った直後の挨拶であった。

“上海 押忍!”

たったひと言。世界一の気合いで挨拶した。涙している道場生もいた。また心で泣けた。

啓治が自分と孫師範代と陽孝3人のために、この日のために魂で描いてくれた龍画をプレゼントされた。龍画を見て驚いた。ぶっ倒れそうになった。龍画は、色紙や掛け軸などでもう何枚何十枚と貰い見ているのでそうそう驚かないが。今回だけは正直びっくりした。いつもは1匹だけの龍が今回だけは3匹いたから。3匹の交わる龍の下には、日本と中国の2つの国旗が友好を示すかのように交わっていた。そして、もっと驚いたのは龍画に描かれている或る絵だった。それは2枚の花札だった。

菊と盃、ススキと月(通称:ボウズ)の花札の絵だった。

菊には“使命!”、ススキには“心魂!”と書かれてあった。花札が珍しくて驚いたのではない。使命と心魂に感動して驚いたのではない。実は今年になって探したい写真があったのでアルバムを見ていたら、2枚の花札の絵が出て来たのである。それが1枚はススキと月で、もう1枚は牡丹と蝶だった。書いた文字は“任侠と博奕!”と青少年育成にはほど遠いが、文字から見て自分が20歳の頃に描いたものだった。出発前にそんな事があったので驚いてしまった。見えない所で考える事もする事も一緒だなあと思った。双子だなあとつくづく思った。

大山総裁は仰せである。

「・・・心魂の空手をしなくてはいけない。心の魂。侍の魂だね、侍の魂を持って精進してもらいたい・・・」

自分が常々思っている事がある。『心・技・体!』の心のことで。

心には、闘争心・平常心・不動心!感謝の心など空手の稽古や試合に関する心だけでも色々ある。心技体が備わらないとチャンピオンにはなれない。自分の思う心とはこういう事である。

ズバリ!DNAである。

幼き頃から目にしたもの。幼き頃からの夢や想い。過ごした日々の出来事でさえ、全てが血となり肉体、そして魂となるのである。人も物体もその根源は、それを形成する一つ一つのDNAである。その根本のDNAが、魂が肉体を作り技を操るのである。そのDNAで、どんな魂を持って稽古をし戦うか!ということである。自分はそう思う。

闘魂神社で過ごした日々。大山総裁の著書・レコード(声)。世界大会を目指して修行した日々の血と汗。それらの原点がDNAとなって沁みついている。啓治の龍画の花札を見た時もそう思った。夢の山、世界の山を登る力の源。あのピラミッドを支える底辺の中心が原点であり、それがDNAだと思っている。まさしく戦国武将の城の石垣でもある。石垣がひとつでも壊れたら城も壊れる。小さな綻びが、やがては大きな綻びとなり崩壊に繋がるのである。

啓治が二日目の夜、責任者達との夕食会で唄った「武田節」。これにも偶然とはいえ驚いた。

 “♪・・・人は石垣 人は城・・・♪」

人間関係も同じである。要は絆の強さである。人の和である。

天の時を知り 地の利を生かし 人の和を重んじ・・・

啓治が16年前に蒔いた種が大きな花を咲かせ実らせた。中国全土から集いし責任者や道場生達との稽古は、奇しくも戦国の世に梁山泊に集いし英雄達の姿に思えてならなかった。啓治の作った魂の法被には「新極真会 水滸伝!」と刺繍がされている。

色々な事が繋がった意義ある遠征だった。啓治の為した偉大な足跡を再認識した遠征だった。言葉にならない。また、自身の使命をあらためて痛感した遠征でもあった。平坦な道は車椅子で行ける。しかし、それとて人の手を借りなければ一歩も歩けない。階段どころか、一段の段差があったら車椅子で進めない。その度に車椅子から降りて一歩一歩歩くのである。一段の階段を昇るたびに“よいしょ!よいしょ!”と掛け声をかけて登るのである。これまでの闘病生活の歩みのようでもあった。この日を信じ続けて、決して諦めることのない、小さな一歩は大きな大きな歩みだったのである。勿論、そこには同じく師の帰りを復帰を信じて待ち続けた中国支部道場生達の姿があった。孫師範代の存在なしに今の中国支部の存続と繁栄はなかった。孫師範代もまた中国の龍となった。

そんな啓治の姿を見てまざまざと教えられた。恵まれた環境に慣れず、満足せずに、しかし着実に、一歩づつ一歩づつ前に進む事を教えられた。一段づつでも上を見て、足元を確かめながら登ることを教えられた。夢を持って諦めずに死ぬ気でやれば夢は叶うことを教えられた。遠征直前の日本代表強化合宿の時、島本が書いた色紙の言葉が自然と脳裏に浮かんだ。

信は力なり!

“啓治、ありがとう!本当にありがとう!”

空手をやって良かった。兄弟で空手を続けて本当に良かった。

緑代表には感謝しかない。

仲間に感謝!組織に感謝!神謝!

空手 この道より 我を生かす道なし この道を歩く